僕が初めて見る博士の表情に戸惑っていると、博士は、サイズの合わない長い長い白衣の裾を握りしめ、言った。

「だったら、ここから逃げるのを手伝いなさい。」
『了、解。』

極めて曖昧な指令だったが、僕はそれを了解出来た。
以前ならば、そんな事は絶対に不可能だった筈だ。
僕という存在が、確実に、曖昧に、成長を続けていた。

「それと、あなたに名前を付けてあげる。1号だなんて、呼びづらくてしょうがないわ。」
『個体識別呼称の変更、了解。個体識別呼称の入力を要求します。』

博士は暫し考えて、答えた。

「ロイ。」

『個体識別呼称変更、認証。』
「行くわよ。ロイ。」
『了解。』

そこから、僕の経験値は一気に跳ね上がった。

武器弾薬、燃料、薬品、食料等を倉庫から持てるだけ持ち出し、博士の小さなリュックサックと、僕の追加装備で
ある大きく頑健なバックパックコンテナに詰め込んだ。
博士の研究室にあったデータは全て物理的に破壊した。これで僕の後続機を製造する事は、博士抜きでは実質不
可能になった。
僕の高速演算処理を使って軍のコンピュータに介入し、敵味方問わず、軌道上にある人工衛星の機能、運用を停
止させた。
これで、衛星で僕らを探す事は不可能になった。
いくつかの衛星は姿勢制御に問題が発生して地上に落下するかもしれないが、それが僕たちの上に落ちてこない
限り、知った事ではない。
再び衛星を機能させるには、新たに衛星を打ち上げるか、双方の軍のコンピュータに総動員をかけて地道に何万
時間もかかってロックを解除するか、僕に匹敵する演算処理能力が必要だろう。

幾枚もの隔壁を破って地上を目指す。
今まで僕達を守っていた筈のものは、全て敵になった。
自動防衛システムや配備されていたロボットはあらかじめ機能を停止させておいたが、それでも人間は立ちはだ
かってくる。
隔壁を破らなくてはならないのも、人間の物理的な抵抗のせいだ。
幾枚かの隔壁は素通り出来たが、そこから先は手動制御によって閉じられていた。

ばらまかれる銃弾が僕の装甲に細かな傷を付けたが、この程度の傷ならば装甲内のナノマシンによる自己修復の
範囲内だから、すぐに直る。
博士が撃つなと言ったから反撃しないだけであって、兵器としての僕は反撃行動を選択したがっていた。
反撃に転じれば、簡単に殲滅出来るのだから。

「っくぁ! ・・・っ。」
『はかせ・・・!?』

僕の後ろに隠れながら付いてきていた博士が、呻いた。
腕を押さえて蹲っている。
跳弾が博士を掠めていた。
腕を掠めて、血が流れていた。
流れた血が、白衣を染めていた。
装甲の内部が急激に、温度変化も無いというのに、凍ったように冷えきった。

敵、殲滅。

『殲滅許可を申請します。』
「・・・駄目。」
『な、ぜですか、はかせ。敵の、殲滅は、可能です。』
「無力化を優先し、低威力の発砲のみを許可。・・・殺害は、許可しない。」
『・・・了、解。』

僕は博士の真意を汲み取れなかった。
だが、殺すなと、博士が言った。だから殺さない。殺せない。
足や腕、武器を狙って的確に無力化させ、倒れ伏して呻く人間を踏み潰して絶命させないよう、跨いで進んだ。

通常の照明が消え、非常灯に照らされた緑色の通路。
最後の隔壁を破り、地上施設のシャッターをこじ開け、僕は初めて研究所以外の世界を見た。

夜の空はどこまでも高く、近くにある都市の明かりで少しだけ白く濁っていた。
博士は僕の背中によじ登り、人間の目では疎らにしか星が見えていないであろう空を見上げ、一度だけ、深く、ゆ
っくりと呼吸した。
少しだけ、博士の表情筋の強張りが、緩んでいたように思えた。

採光度を調節してアイセンサーを暗さに適応させ、追っ手がまだ来ていないことを確認し、博士を背中に乗せたま
ま、博士の指示で移動を開始した。
暫く進んで、一端、木々の陰に身を潜めるよう指示された。

「そろそろ、かな。・・・起爆。」

博士が、なにか小さな箱型をした装置のボタンを押すと、轟音と共に地面が揺れた。
地下深くにあった博士の研究室が崩れた音だ。
僕が造られた研究室は、博士の研究ごと地中に埋もれた。
最初の隔壁は出るときに閉じてきたから、爆発と崩落に人間が巻き込まれた心配は無いだろう。
僕は特に名残惜しくも無かったが、博士の表情はどこか複雑そうだった。

僕達は、車両が通れないような所を選んで進んだ。
長時間に亘って高速で走行するように造られていない僕の足では、すぐに追い付かれてしまう。
瞬発的なスピードは出せるので、跳躍して進めばそれなりの早さで進むことも出来るが、それでは博士の体がもた
ない。
岩場や森みたいに障害物の多い所ならば、敵の種類も数も自然と限られてくるし、人間が敵ならば、僕の装甲の
表面を保護色に変えるだけでもそれなりに対応出来る筈だ。

「さて、これからどうしよう。」

暗い森の中で、所々が茶斑に染まる白衣をはためかせ、まるで休日の予定でも決めるみたいに、博士は僕の背
中の上で呟いた。
どうやら本当に何も計画は無いらしく、適当に、指差した方向へと歩き続けるようにと言われた。

僕は、博士を泣かせない為なら、どこへだって行く。笑ってくれるなら、何だって出来る。
その行動の理念が何に起因し、何処から来るものなのかを、未だに僕は理解していなかったが、そのうち理解出
来る筈だろうという曖昧な思考処理によって、その追求を後回しにした。


この日、僕は、僕になった
僕がロイになったこの日が、多分、僕の生まれた日
1号ではなく、ロイとして


火薬と銃弾と破壊と硝煙と血と罪と暗闇に彩られた、僕の、バースディ