僕は触覚にも似たセンサーを、つい、と揺らした。

少々、興味深い。

毛布を被って寝息をたてている博士に眼を向けた。
毛布が微かに上下しているのを確認し、また本に眼を向けた。
僕がこの台詞を言えば、博士も、この本の女性のような反応をするだろうか?

だとしたら、非常に、興味深い。

試してみる価値はありそうだ。
だが、博士は常日頃から感情表現が薄い傾向がある。
より強い反応を追求するなら、より多くこのジャンルの本を読み、博士に適した言葉を探求する必要がありそうだ。
そう判断した僕は次の本にマニピュレータを伸ばした。

暗い部屋の中でばらばらと、ページを流す。
雨垂れに似た音は一晩中続き、そして、夜が明けた。

「ん・・・。おはよう、ロイ。」
『おはようございます。博士。』

博士が目覚めた。
作戦開始だ。

『博士。』
「何?」

『例え世界が滅んでも、僕の、博士への愛は永遠です。』
「え・・・?」

『僕の為に味噌汁を作ってください。』
「ミソシル?」
『月が綺麗ですね。』
「今は朝よね?」
『誓いの証に髪のリボンをくれませんか。』
「リボンなんてしてないのに?」
『ああ言えばこう言う。』
「愛、えばーふぉーゆー?」
『せきは、らーぶらぶ!』
「てんきょーけん?」

その後も幾つか見繕っておいた言葉を言った後、僕は暫く博士の反応を待った。
だが、博士はぼんやりと、少しまだ眠たそうな目でこちらを見ながら、寝癖の付いた頭を撫で付けるだけだった。

・・・反応が薄いなんてもんじゃなかった。

何が違ったのだろうか。こんな筈では無かったのに。
やはり僕如きが博士の行動を如何斯う出来る訳がなかったのだと猛省した。
やはりフィクションはフィクション。コメディーはコメディーだったのだ。
ああ、人間の創作物というのは何故これ程までに無意味で残酷な期待を僕に持たせたのか。
テキストの面白さも手伝って、夢中になって一晩かけて情報を収集していた時の有頂天だった僕を思い出し、居た
堪れないような気分になった。


私は寝癖が付いてふわふわと落ち着かない髪を撫で付けながら、センサーをだらりと下げたロイを見て、次いで、
周囲の本棚を見渡した。
成る程やはり、本の埃がうっすらと剥がれ落ちている。
砂糖を吐くような甘たるさを匂わせるタイトルの本ばかりが。

・・・しかし、最初の台詞はともかく、後のはちょっとベクトルを間違えてはいないだろうか。
そのせいで拍子抜けして、喜び損ねてしまった。
それとも、彼なりのユーモアだったのだろうか?
まあ、それはともかく・・・中々、興味深い。

私は表情の緩みを抑えきれなくなった。


「ローイー?」
『何ですか? 博士。』

博士は何故か、満面の笑みを浮かべている。
良からぬ事を思い付いて、楽しくて楽しくてしょうがないというような笑みを。
僕は、絵本の挿し絵に描かれていたチェシャ猫を思い出した。
やっぱり、博士の方が愛らしい。

「ロイ、私があなたを、幸せにしてみせるわ。」

『・・・え。』

顎が、がばんと開いた。なんでだ。
危ないから慌てて閉じた。
最近、予想だにしない動作をすることが増えたように思う。あくまでも、行動に支障を来さない程度で、だが。
博士は尚も言葉を続けた。

「一緒に、幸せな家庭を築きましょう。」
『あ、う、ぇ、あ。』

言語エラー。
僕の言語処理機能が一時的に麻痺した。
発声装置から、意味不明な声が漏れる。
発するべき言葉が見つからない。
全力でもって肯定すべきだろうと思うのだが、どうにも不意打ち過ぎて反応できない。
僕は、飛んできたミサイルだって撃ち落とせる反応速度を持っている筈なのに。

「何年たっても、何十年たっても、いつまでも、ずっと一緒よ。」
『う、ぁ。』

後退ろうとして脚の制御がうまくいかず、自分の脚で転びそうになった。
僕は、博士が本に書かれていた女性のような反応をする事を望んでいたはずだったのに、なんで僕がこんな変な
反応をしているのか。
こんな筈では無かったのだ、が、これは、これで。
・・・悪くない、かもしれない。

うまく言えないけれど、博士が本当にそうあるべきだと望むならば、僕はそうなるように全力を尽くそう。
例え今の言葉が何かから引用された言葉であり、この場限りの冗談だったとしても、そんな言葉が聞けただけで、
僕はこの上なく幸福だ。

僕の触角に似たセンサーは、パタパタと振れていた。


よく分からないけれど博士は僕の反応に満足したらしく、何故だか上機嫌で朝の身支度を始めた。

『博士、缶詰程度なら何処かに残っている可能性が有ります。食料確保を優先しますか。』
「ん。そうしよっか。・・・ロイから言い出すなんて、珍しいのね。」
『最近は固形栄養補助食ばかりで、博士は食事の時、あまり嬉しそうな表情をしていません。』
「まあ、この前偶然沢山手に入ったけど、確かにあんまり美味しいものじゃないし。」
『ですから、博士の喜ぶ表情が見たいんです。僕は、博士の嬉しそうな表情が好きですから。』
「え、あ、ぅ・・・。」
『・・・どうしました?』
「・・・なんでもない。」
『微弱ながら体温値の上昇を感知しました。体調不良ですか?』
「大丈夫、問題無い。」
『・・・本当ですか?』
「・・・本当よ。」

本当に本当ですかと聞いたら、くどい と怒られた。
顔の温度が更に上昇していたから、余程怒っていたのだろう。
しかし、博士は何故か口元を緩ませて、鼻歌交じりで嬉しそうに身支度をしている。
どういう事なのかよく分からなかったが、なんにせよ、博士が楽しいならそれでいい。

大きな窓のガラスがすっかり砕けて、まるでテラスのようになっているエントランスの窓から外に出た。
雨上がりの空は、とてもとても、透明な青空だ。










戻る